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インタビュー「先人に学ぶ」

山里に生きる

山里に暮らす自信と誇り

栗田和則さん 暮らし考房(山形県金山町) 

揺れるむらからの出立

 山里は水清くして人貧し。

 そういわれるようになったのはいつの頃からだろうか。
 一九七〇年代、日本経済が成長期に入ると、集落ごと街に移る「挙家離村」が社会語となった。それから二十数年が経って、残った村も高齢化が進み、静かに崩壊していく山村が続出した。
 私の村もまた、そういった世相と無縁ではなかった。一九七〇年、杉沢ダムの基礎調査が県によって始められた。中田春木川の流量と降雨量の調査である。父が区長をしていたこともあってか、私の家の前に高さ三メートルほどの丸太の櫓が立ち、その上の、自記装置の用紙を交換し県庁に送るのが私の任になった。この年、米の減反政策も始まり、村は大揺れとなった。「街に出るいい機会だ」、「いや、田んぼがあり、山がある、ここで暮らした方がいい」、はたまた、「村の入り口で閉じれば、私を含む四戸がダムの奥に残る」と、まことしやかに語られた。
 二十代後半ながら戦傷の父に代わって一家の働きの中心となっていた私は、その対応をせまられた。土地を守る農民の心を少しでも知りたく思い、空港建設の反対闘争をする成田を見たり、山村でどう生きるかを考えるために、人が去った幾つかの山里を訪ねた。夏草が生い茂る農地、崩れかかる家屋、玄関先に取り残されたように咲く草花、長々と伸びる青大将の姿等に、こみ上げてくる侘びしさ何度も味わった。その度に、むら人はここでどう暮らしを立てていたのだろうかと、答えのでない思いをめぐらした。
 なぜか、私の訪ねたむらは、街からむらに帰る道すがら振り返れば街の灯が見える峠がある。そのむらではいい暮らしをしていたであろう旧家が先にむらを下りている。そんなむらほど脆いという共通点が見えた。それからは、むらを去る時は、最後になってからと、心を決めた。
 ダムの調査は三年続いて終わった。県庁に問い合わせると、当面ダムの計画はないとの答えだった。
 それから三十五年、十八戸だったむらは十三戸になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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